この病気、「私」の向き合い方

自らの情報を積極的にオープンにすることで同病の方の励みになりたい、この病気の認知・理解をより高めていきたいという患者さんご本人の思いを踏まえ、今回は実名と写真付きでご紹介します。

トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーがわかったきっかけは、妹さんの発病でした。同じ病気でお母さんと妹さんを亡くし、なかなかご自身の病気が受け入れられない時期もありました。生体肝移植の手術後は、壮絶な苦しみに襲われ、先の見えない闘病に心が折れそうになったことも。そんな日々を支えてくれたのは献身的なご家族の看病と教え子たちとの約束でした。
現在はご自身の体験を伝える講演活動を行いながら、前向きに日常生活を送られています。「今が生きていて一番幸せ」と感謝できる気持ちに到達するまでの日々を伺いました。

「遺伝性ATTR(ATTRv)アミロイドーシス」、「FAP(Familial Amyloid Polyneuropathy)」とも呼ばれています。

妹が倒れたことで自分にもトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーのリスクがあることを知りました

診察中のイラスト

皮肉にも妹が倒れたことで、僕の病気がわかりました。2012年、父から電話があり妹が病気にかかり、それは遺伝するものだと伝えられました。「遺伝ということは自分も?」と思いましたが、その時は自分に不利な情報は受け入れられなくて。ただ、すぐに20年以上前に、当時原因不明の病気で亡くなった母のことを思い出しました。実際に自分の問題として深刻に捉え出したのは、妹の主治医からお見舞いに来てほしいと直接連絡があってからです。妹の主治医に会うと、僕に妹と同じ病気の傾向がないか、たずねられました。代表的な症状は「立ちくらみ」と「筋肉のつり」だと言われて、思わず苦笑いをしてしまいました。誰にでも起こる症状だと思っていたのですが、実際に僕はその二つの症状に悩まされていて、インターネットで対処方法をよく検索していたからです。「思い当たる節がある」と伝えると、医師は、落ち着いて慎重な口調で話し出しました。「無理強いすることはできませんが、すぐに血液検査をすることを強くお勧めします」と聞き、僕は検査をしようと決めました。

体調がどんどん悪化しつつも病気を受け入れられない日々が続きました

この遺伝性の病気かどうかがわかる血液検査は、地元の中核的な病院に依頼し、大学病院へ血液サンプルが送られて調べられました。結果を聞きに病院へ行くと、看護師さんが4人ほど待機していて、普段とは違う独特の雰囲気がありました。理由はすぐにわかりました。そこで医師にトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの検査結果が陽性だと告げられたのです。僕はこれまでの体調不良から、発症を自覚していたので淡々としていました。「家族と相談して、これから対処を考えます」と返事をしたら、逆に医師に驚かれたほどです。「何で自分だけが」「死にたくない」「嘘だろ!」と言って暴れる方も多いらしく、それで看護師さんが待機していたと伺いました。告知の時は冷静さを保っていた僕ですが、実は病気であることを受け止めきれていなかったし、悪あがきもしました。実際、血液検査をしてくれた大学病院へは、そこから2年間も連絡をしなかったのです。当時、僕は小学校の教員をしていて、その時は仕事が忙しいことを理由にしていましたが、後で考えてみると、やはり自分が病気だということを認めたくなかったのだろうと思います。自分で色々と調べていたので早期治療が望ましいこともわかっていたし、体調も悪くなってきていたので、自分自身が大丈夫だと信じている訳ではありませんでした。それでも、やはり病気を受け入れられなかったのです。
悪あがきとしては、漢方や中医学に頼り、わざわざ東京まで行って、著名な方に施術をしてもらったこともありました。一時的には良くなったと感じても、やはり少し経つと、さらに具合が悪くなるといった繰り返しでした。そしていよいよ職場の小学校では、授業もできない、脚立に上がって掲示物を貼ることもできない、休み時間に子どもたちが僕にぶら下がって遊ぶこともできないような状態になりました。
そんなある日、僕は恐怖の体験をすることになります。雪かきをするため夜中に一度起きようとしましたが、全く体が動かない。何が起こったのかわかりませんでした。それでも雪かきをしないと職場に行けないと考え、何とか起き上がりました。ところが、その後のことを全く覚えていないまま、ふと時計を見ると2時間が経っていました。僕は気を失っていたのです。体中が痛くてアザだらけでした。さらに、なんとか外出をしようとしても一歩歩くと気を失ってしまい、目が覚めるたびに自分がどこにいて、何をしているのかさえわからなくなり、短期の記憶喪失のようになっていました。そのような経験には、ただただ恐怖を覚え、さすがに限界だと感じ、2年間も放置していた大学病院へ連絡をしました。
しかし、そんな状態になっても僕はまた先延ばしをしてしまい、結局、小学校が春休みになるまで病院へ出向くことはなかったのです。

中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学

トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの発病が確定し、ついに検査入院が決まりました

大学病院ではトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの治療を専門としている医師が診察をしてくれました。僕の状態を聞いて、すぐに「発症している」と告げられました。まずは寝て血圧を測り、次に立ち上がって血圧を測ろうとするのですが、僕はふらふらで立てません。ほとんど気を失っている状態で血圧を測ってみると最低血圧が40もありませんでした。ハケで触られても感覚がなく、針で刺されてもわからない、脚気(かっけ)の検査をしても一切反応が出ないといった状態を目の当たりにして、とてもショックを受けました。病院へは自分で歩いて行ったのですが、診察が終わった後はショックのあまり歩けなくなったほどです。
病院側は、検査入院をすぐに整えてくれました。ところが不幸なことに、大きな地震が起きてしまったのです。検査入院が約1ヵ月延びてしまい、症状がつらかった僕にとっては、この1ヵ月の生活が地獄のようでした。
最悪の体調のまま検査入院に入ったのですが、入院時は妻も娘も付き添ってくれました。2人とも「僕が一番大事だ」と言ってくれて、それは今でも本当にありがたく、闘病は家族なしでは考えられません。

耐えがたい痛みと苦しみの中、生体肝移植の手術を決意
教え子たちとの約束に心が救われました

2週間の検査入院後に、生体肝移植の手術をすることになりました。妻が自分の肝臓を使ってほしいと言ってくれたのです。ただ、検査入院をする時点では、まだ手術を行う決意はできていませんでした。しかし、当時、耐えがたい痛みと苦しみが毎日続いていたのに、検査結果を聞いて、もっと症状が進行する可能性があると知り、手術を決意しました。
父のことも考えました。父は同じ病気で妻と娘を亡くし、その上僕までいなくなったらどうなってしまうのかと思ったのです。やはり父には言い出しにくく、手術の直前にやっと電話をすることができました。発病と手術を告げると、父は黙りこんでしまいました。そして絞り出すような声で「お前まで奪われるのか」と。その一言は強烈でした。
成功の確率は95%以上だと聞いていたこともあり、楽天家の僕は手術に関しては何の心配もしていませんでした。ところが術後の経過が非常に悪く、それまで以上につらい日々が待っていました。特につらかったのは、尿道感染を防ぐために尿道のチューブを1日3回も抜き挿ししたり、何を食べても全部吐き戻してしまうために、鼻から腸まで続く大きなチューブを入れて直接すりつぶした食物を入れていたりしたことです。痛み以上に、精神的なもの、いつ治るかわからないという状態が一番つらく感じました。当初は2ヵ月程度の入院だと聞いていましたが、退院できたのは10ヵ月後でした。 小学校と生徒のイラスト
術後は、あまりのつらさに何回も死にたいと思いました。周りの方もそんな状態を察したようで、気が付くと僕の周りから、どんどんハサミや針などの刃物が消えていきました。そんなつらい状況を乗り越えられたのは、教え子たちとの約束でした。手術前、一度集会で話をする場があり「先生は頑張って手術をして、必ず戻ってくるから、皆も頑張って勉強や宿題をするんだよ」と約束をしました。その時は何の心配もしていなくて、ただ軽い気持ちで、子どもたちも「わかった。頑張る」と言って送り出してくれたのです。小学校の教師は、子どもと約束をしたことを絶対に破ってはいけません。「飛び降りてしまおうかな」と心をよぎったこともありますが、その度に「子どもと約束をした」と思い出しました。何の気なしにした約束が、僕を救ったのです。

今までの人生の経験がすべてつながり
これからは夢を叶えていきます

体験談を話す男性と複数人聞いているイラスト

壮絶な入院生活を送りましたが、現在では病気も友達みたいな感じです。「つらい時はいつですか?」「痛い時はいつですか?」とよく聞かれますが、体の状態は今でも常につらく、吐き気もあり、ふらふらしています。それでも、この病気になってから、色々なことに感謝をする気持ちが芽生えました。病気になるまでは、自分の身に起きることに一喜一憂していましたが、今は視点が変わったように思います。病気が教えてくれたことはたくさんあり、僕は現在がこれまでで一番幸せだと感じています。
この闘病経験を通じて、僕は「諦めなかったら夢は叶う」と思うようになりました。そして、それを伝えていくことが僕の生きている意味だと思っています。多くの方に伝えたいという思いから、講演会を行っており、今後は本を出版する予定もあります。体験談に「感動した」「励まされた」「多くの人に、これからも話してほしい」という声も多くいただく中で、僕は、これまでの経験は与えられたものだと感じるようになりました。学校の教師をやっていたのは話をする力をつけるためであり、本を書く力をつけるためであり、顔を広げて大勢とのつながりをつくるためであったのだと。だから病気になったことを残念がっている暇はありません。
トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーが希少疾患だからというよりも、今まで発信する人があまりいなかったからか、同病の方と知り合えたことはほとんどありません。この先、僕が発信していくことで出会う機会も生まれてくるかもしれませんが、ぜひ同病の方には「楽しい日もたくさんありますよ」と伝えたいですね。病気があると、悪いことばかり考えて、どんどんふさぎこんでいってしまいます。でも、実際には楽しいこともたくさんあります。家の中で引っ込んでいたら何も起きませんが、一歩外に出れば変わることも、奇跡が起きることもあります。僕もこの病気の発信を決意するまでは戸惑うことも多かったです。遺伝性の病気なので、僕一人の判断だけでは決められないこともありましたが、娘や親族に聞くと賛成をしてくれて、誰もブレーキをかける人はいなかったのはありがたかったです。これからも講演会やインターネット、書籍などを通じて、この病気のことや体験したことを多くの方に伝えていきたいと思っています。

内容は、2019年7月インタビュー当時のものです。