この病気、「私」の向き合い方
Oさん(50歳代、女性)
周囲からの心ない言葉に涙した日々を乗り越え、子どもたちや友人との「繋がり」のある今を楽しむ
突然の嘔吐発作が起こった20年前。トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチー*と診断されましたが、幸いにも1ヵ月余りで肝移植を受けられて今日に至っています。明るく前向きなお人柄ですが、病気やそれに伴う症状に対する周囲の無理解や心ない言葉に傷ついたこともあったそうです。今では、しっかりと病気と向き合い、ストレスをうまくコントロールしながら、ご家族やご友人たちとの温かい繋がりのある暮らしを楽しまれています。
「遺伝性ATTR(ATTRv)アミロイドーシス」、「FAP(Familial Amyloid Polyneuropathy)」とも呼ばれています。
記憶が途切れるほどの
激しい嘔吐発作が続きました
私がトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの診断を受けたのは1997年で、もう20年以上前になります。ちょうど忘年会・新年会のシーズンだったのですが、たった一杯のビールを飲んだだけで、今までに経験したことのない吐き気に襲われました。今までお酒を飲んでもそんな状態にならなかったのでおかしいなと思い、近所のクリニックを受診しました。
すでに亡くなっている私の母がトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーを患っていて、その経過をよく見ていました。しかし、その時は、それまで何の症状も出ていなかったので、自分も母と同じ病気かもしれないとは思いもしませんでした。
クリニックでもまったく吐き気が治まらず、医師が麻酔か何かの処置を施してくれたそうなのですが、あまりにも効かないのでアルコールや薬物の依存症を疑われたほどでした。嘔吐発作がなかなか治まらず、それがつらすぎて記憶があいまいなのですが、付添いをしてくれた家族が母のことを思い出したのか、クリニックの看護師さんと話をしたようなのです。そこで母が診てもらっていた大きな病院へ行くことになりました。
病院では母の診療カルテが残っていて、この病気に詳しい先生が大学病院で検査を受けられるように手はずを整えてくださいました。そこで遺伝学的検査やお腹の脂肪にアミロイドが沈着していないかなどの検査が行われました。
「私は大丈夫」と信じて
肝移植を決意しました
検査の結果、トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの確定診断を受けました。しかし、体調が悪すぎて、その時の気持ちをはっきりとは覚えていません。ただただ吐き気がつらかったのを覚えています。
治療の計画は、すぐに決まりました。2月に発症がわかり、3月末ごろには肝移植というスピードでした。父親の肝臓が適合したためドナー(臓器提供者)になってくれたのですが、準備をするだけであっという間に毎日が過ぎていきました。大きな手術になることはわかっていましたが、自分が死ぬとは考えず、恐怖も特にありませんでした。 ただ、医師から「まだデータはあまり多くはないけれど、肝移植をすればおそらく生きていくことはできます。でも、肝移植をしないとベッドの上で5年です」と言われ、それが死の宣告を受けたみたいで、大きなショックを受けました。
それでも「私は大丈夫」と思い続けていました。比較的、何でも前向きにとらえる性格だからかもしれませんし、自分に言い聞かせていた部分もあったかもしれません。
周囲の理解が得られず
術後は精神的に苦しい日々を送りました
術後のほうが色々とつらいことが多かったように思います。手術は無事に成功したのですが、元からあった吐き気の症状は治まることがありませんでした。術後、集中治療室から出て、大部屋に移りました。6人部屋だったのですが、当時は胆道閉鎖症の子どもさんも同じ部屋にいた時代です。そんな中、嘔吐発作で苦しんでいたら、同室の方に嫌がられたり、今では考えられませんが看護師さんにもうるさいと怒られたりしていました。それで入院中は個室にいることが多かったです。
退院後、仕事に復帰したのですが、ストレスを抱えたり精神的に追い込まれたりすると嘔吐発作が出てしまうので、体調不良ということで何度も転職をするしかありませんでした。仕事には本当に苦労しました。
当時は肝移植を受けても、まだ障害者認定を受けることができませんでした。役所に相談に行った時に「特別な手術ではないから」と言われて傷ついたことがあります。無意識で悪意もないのかもしれませんが、そう思っている人がいることで落ち込みました。
その後、肝移植で障害者認定が受けられるようになってからは、語弊があるかもしれませんが、説明がしやすくなって嬉しかったです。体調が不安定な中で仕事をする時も、人に説明する時も、伝わりやすくなりました。見た目には何の病気かわからないので、「どこが障害者なの?」と聞かれることもありますが、私は病気のことを隠すつもりはないので、それに対してはオープンにお答えしています。
最近はバッグにヘルプマーク※をつけているのですが、まだ知らない人も大勢いるようです。明らかに具合が悪くなっていても、誰もサポートをしてくれないということもありました。貧血のような状態で、動けずに道端の電柱に寄りかかっていた時でも、誰からも声をかけられませんでした。「このマークは何?」と聞かれることもあるので、最近は私がこれをつけていることで、少しずつでも周知できればいいかなと思うようになりました。私にヘルプマークのことを聞いた人が、どこかでそのマークを見かけた時にそれを思い出して、手助けをしてくれることを期待しています。
※: 障害や疾患などがあることが外見からはわからない方が、支援や配慮を必要としていることを周囲に知らせることができるマーク。
子どもたちや友人たちとの温かい繋がりとともに
日々を過ごしています
今は、「普通に毎日が楽しければいい」と思っています。例えば仕事がうまくいかない日も、それはその場で終わりにして、家に帰ったら楽しもうと。考え込んだり、自分を追い詰めたりすることが止められない時もありますが、「ストレスを抱えないように」と医師にも言われましたし、できるだけあっけらかんと流すようにしています。
最近はきつい言葉を言われても、クヨクヨすることなく対処できるようになってきました。長く生きてきた分だけ、少しコツがわかったという感じでしょうか。ストレスが原因になることもある嘔吐発作も、頻度は少なくなってきました。発作自体のつらさは変わりませんが、「ちょっと待てよ」と冷静に、客観的になるように努めています。
精神的な支えとしては、学生時代からの友人の存在が大きいですね。変わりなく接してくれて、「病気のことを忘れてしまうね」と言ってくれます。家族ぐるみの付き合いで、私の子どもと友人との間で連絡を取り合えるような間柄です。
私はひとり暮らしをしているのですが、インターネットなどで周りと繋がれる時代ですので、寂しさはないです。子どもたちには、毎日、生存確認の意味でSNSのメッセージやスタンプを送るようにしています。
急に体調が悪くなってしまうこともあるので、携帯電話は片時も手放しません。トイレで急に動けなくなってしまっても子どもに助けを求められます。
あくまでも私のケースですが、子どもたちには彼らが20歳になった時に、私からこの病気の遺伝の可能性を伝えました。病気に対する受け止め方はそれぞれ違いましたが、今では子どもの配偶者も、この病気のことを理解しようと熱心に勉強してくれています。この病気について知りたい人が正しい情報が得られる機会が、もっとあるといいなと思っています。
内容は、2019年10月インタビュー当時のものです。