この病気、「私」の向き合い方

治療薬の効き方には個人差があり、すべての患者さんで同じような効果が得られるわけではありません。

ご家族も発病したトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチー*。症状を自覚したのは40歳代に入ってからでした。飛蚊症のような症状に始まり、胃痛、吐き気、食欲不振も出現。何もないところで転ぶようにもなりました。様々な診療科の受診を経て、この病気の確定診断を受けたのは、最初の症状から2年半後のことでした。初めはこの病気を受け入れることができなかったものの、今の治療に出会い、気持ちに変化が生まれました。周囲の理解を得て、今も看護師として活躍されています。

「遺伝性ATTR(ATTRv)アミロイドーシス」、「FAP(Familial Amyloid Polyneuropathy)」とも呼ばれています。

母方の叔父の発病でトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーを知りました。
その後、母や母の他の兄弟もこの病気と診断されました

私が最初にトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーのことを知ったのは中学生の時で、母方の叔父の発病がきっかけでした。その頃は「遺伝性の病気があるんだな」という程度の知識でした。叔父は36歳で他界しました。そして、20歳代の時には母が発病しました。目の症状があり、手術を受けるなどしていましたが、叔父のこともあり、病気そのものは認めたくない様子でした。

母が発病したことで、私も遺伝学的検査を受けました。母の変異型が不明だったため、日本人に多いとされる遺伝子変異(V30M変異型)の有無を調べる検査にとどまりましたが、その変異は見つかりませんでした。結果を知って安心したのを覚えています。
母は闘病の末、53歳で他界しました。母方の叔父と叔母の全員がトランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーと診断され、詳しい病状はあまり知りませんが、亡くなりました。

40歳代に入り、飛蚊症のような症状が出現。
胃痛、吐き気、食欲不振も生じました。
確定診断に至ったのは最初の症状から2年半後でした

飛蚊症や胃痛に苦しむ女性のイラスト

40歳代に入ってから、左目に飛蚊症(視界に蚊が飛んでいるように見える)のような症状が出始めました。胃痛、それに吐き気も出て、食事ができなくなりました。胃カメラの検査を何度か受けましたが、慢性胃炎だと言われました。看護師として、それまでは忙しく走り回っていたのですが、そのうちに何もないところで転ぶようになりました。足を上げているつもりなのにちゃんと上がっていないのです。

眼科や消化器内科の他にも、椎間板ヘルニアを疑って整形外科にも通いました。しかし、一向に良くならず、「おかしいな」と思い始めました。思い返してみれば、母と同じような年齢で、同じような症状が現れていました。

勤務先の医師にも相談し、いくつかの検査を受けましたが、当初は「遺伝子の病気ではないでしょう」と言われていました。症状が次第に悪化する中で、偶然、アミロイドーシス全般について勉強をされている方が担当医になりました。この病気かどうかもう一度調べたほうがいいよと言われ、胃カメラで生検を行った結果、アミロイドが検出されました。そこで初めて大学病院へ採取した血液や体の組織などを送ってもらい、遺伝学的検査の結果、トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの診断が確定しました。20歳代の時の検査で見つからなかったV30M変異型ではなく、別の変異型でした。最初に目の調子が悪くなってから、2年半が経っていました。

診断時は病気であることを
なかなか受け入れられなかったのですが
今の治療に出会ったおかげで気持ちが変化しました

トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの確定診断を受けた時、私はとてもショックでした。自分は遺伝子変異がないから大丈夫だと長年信じていたからです。夫はこの病気を知らなかったですし、診断当時の私は足腰のしびれが強くはなく、まだ動くこともできたので、難病と聞いてもあまり深刻に捉えていないようでした。

一方、母が亡くなるまでの様子を間近で見ていた兄は、夫以上に動揺していました。私が食べられなくなって、みるみる痩せていき、しびれから杖なしには歩くこともできなくなったことを伝えると、「もうこれ以上動けないようになったら、俺はお前を見たくない」とまで言われました。兄は、私が母と同じような状態になっていくのが、とても辛かったようです。

この病気だと判明してから、かなりのスピードで症状が進行しました。下肢について身体障害者障害程度等級で2級と認定されました。当初は症状の進行するスピードに気持ちがついていけず、なかなか病気を受け入れることができませんでした。それでも、今の治療に出会い、治療効果が感じられるようになったおかげで、病気を受け入れることができるように、気持ちにも変化が起きました。

私にはまだ小さい子どもがいます。定期的に通院している大学病院の先生に、「この子が20歳になるまで元気でいたい」と言ったら、「大丈夫、あなたは70歳過ぎまで生きられるから」と返されました。その言葉を信じていこう、悲観的になっても仕方ない、と思って普段通りにしています。最近では、勤務先で久しぶりに会った同僚が私の杖を見て「どうしたの?」と聞いてきましたが「ちょっと難病になっちゃってね、足がしびれて感覚がないのよ」と返せるようにもなりました。

家族や親族と話して、この病気を疑ったら
専門医に相談に行ってほしいです。
自分の子どもには、成長したらきちんと説明したいと思います

いとこたちに病気の経緯を打ち明ける女性のイラスト

トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの確定診断を受けて、大学病院に入院することになった時に、いとこたちに思い切って連絡をしてみました。自分の経緯を打ち明けると、4人のいとこがこの病気を発症していることを教えてくれました。それぞれの話を聞いてみると、発症は最年長の私が一番早かったようです。私や母と同じく、いとこたちも目の症状から始まっていました。眼科に行った時の様子などを聞くと、自分自身が少し前からなっていたのと同じような状態と知り、もっと早くに、「自分にはこういう症状が出たのだけれど、あなたたちはどう?」と聞いてみたら良かったと感じました。

今は、インターネットで専門の医療機関も調べられるようになりましたし、相談できる医療機関も増えてきたと思います。だから、ご自身のご家族やご親族と話して、トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの症状のある人がいれば、もっと専門の医師に相談に行くようになってほしいと思います。

子どもには、もう少し成長し、理解できる年齢になってきたら、病気についてしっかり説明しようと考えています。何かおかしいなと思った時にはすぐに相談に行ける場所がきっとあるよ、と伝えてあげたいと思います。

病気になっても働けるし、
理解してくれる人はいます。
他の方も人生を諦めないでほしいです

勤務先の病院には、トランスサイレチン型家族性アミロイドポリニューロパチーの確定診断後すぐに病気のことを打ち明け、看護師長や部長と今後について相談をしました。部長はこの病気について自ら調べて理解を深めてくれました。理解してくれる仲間に囲まれる女性のイラストまた、私の歩行能力を踏まえて、事務系の仕事を増やすなど、業務を調整してくれました。看護師を続けることに不安はありました。でも、部長に「あなたには辞めてもらっては困るから。まだまだ頑張ってもらわないと」という言葉をかけられ、ここに居続けていいんだ、と思うことができました。看護師として働き続けることができて感謝しています。それとともに、周囲の理解や柔軟な働き方ができる環境があれば、病気を理由に働くことを諦める必要はないのだと実感しました。

特に、もし若い方がこの病気になったとしても、人生を諦めてほしくないと思います。理解してくれる仲間や働ける場所はありますし、病気になったら終わりだと思わず、何でもできるという気持ちでいていただけたらと思います。

内容は、2022年4月インタビュー当時のものです。